[長編]俺がオーストラリアで人生を変えた話

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オーストラリアのスーパーマーケットで、イチゴを見つけてその安さに驚愕して撮った写真。
「1パック150円って正気か?!」って思いました。あ、味はお察しのとおりです。

はじめに

 この記事では2022年9月から2023年6月までのオーストラリア滞在において私の身に起こったことを書き残すために作成したものです。

なぜオーストラリアへ?

当時の恋人を追いかけた

かつて交際していた彼女から留学に行くことを告げられ、それを追って渡豪しました。
元彼女に会いたい気持ち1割、海外に行きたい気持ち9割くらいでした。

自分への挑戦

渡豪の数ヶ月前に彼女とは別れましたが、全ての準備は完了しているためキャンセルするわけにはいきませんでした。こうなってしまえば自分への挑戦。あるいは”勝負”です。

何をしていたのか

学生寮編

 入国日から数日ほどは元彼女の滞在している学生寮にお世話になりました。しかし、その環境は一時的なものであり3日目には出ていくこととしました。その時の焦りの感情は今でも鮮明に覚えています。
 進むしかないが、どこにいくかわからない。とにかく学生寮を出ることにしました。

ホームステイ編

 ほぼノーアポイントでホームステイを申し込んでみて、一つの受け入れ先を見つけることができました。価格は驚異の週800AUD(7万円ほど)でしたが、ホームレスかの2択だったのでやむを得ません。

夕方ごろ、近くの公園で約束の時間になるまで待っていました。公園では小さな男の子がブランコで遊んでおり、彼は暗くなったら帰る家がある。しかし俺は、これから知らない人の家に目的もなく行くのだという不安を感じていました。

 そしてホームステイ先のホストファミリーはあまり歓迎してくれなく、いかにもビジネスという様子でした。「ホストファミリーとお出かけ🎵」なんてきっと「おとぎ話」か何かでしょう。

 滞在期間が終わり、ホームステイ先を出て次のゲストハウスへ向かう様子が下の写真です。これからの将来を憂い、自身の選択に後悔しながら歩いています。「こんな場所に来るんじゃなかった」と。

将来に絶望しながらゲストハウスへ

なぜ俺はこんな思いをしているのだろうか?
ホームステイのホステスからは歓迎されずに、一週間で脱出し即興で見つけた格安ゲストハウスに向かう足は非常に重く、明日に続く希望は何もない。今夜、どこで寝て何を食べるのか。
帰る家もない。頼れる人もいない。頼れるのは自分のみ。
絶望とはまた違う感情。無に近い感じで現実逃避の最上級だろうか。

ゲストハウス編

 より安く泊まれる場所を探していたところ、ゲストハウスを見つけました。
 そこでは多くの人に出会い友達もできました。そこで3週間ほど滞在をして次の家を探す計画を立てていました。
 滞在費は一泊あたり45AUD(5000円くらい)くらいだった記憶があります。
 彼らは旅行で来ており、滞在を楽しんでいる様子でした。そりゃそうだ。こんなところに好き好んで苦痛を感じにくるやつなんていないのだから。

シェアハウス編

 ゲストハウスにずっと住んでいては月に150,000円くらいの賃料がかかるので、急いでシェアハウスを探しました。
 エージェント(家を紹介してくれる人)に片っ端から連絡してなんとかこの家を見つけることができました。どうやらメルボルンでは家が不足しているようで供給不足のようでした。
 賃料は一週間あたり200AUD、月で7〜80,000円くらいでした。

 久しぶりの個室のある生活に安堵して眠りにつくことができるようになりました。ここが私のオーストラリア生活の拠点となりました。

(↓写真のリンク切れを修正する)

共有エリアの写真
個室・寝室の写真
お気に入りのクッキーとミルクティー

仕事について

強く決意していたこと

日本人のいる環境・日本人が優遇される環境には絶対に身を置かないこと。これを決心していました。

地獄のCV配り

 日本人としての仕事探しは困難を極めました。英語が話せず、visaにも労働の制約が課せられていたためです。
 面接にいてもvisaや英語を理由にNGとなることが多々ありました。そもそも面接の声が掛かることすら稀でしたが。

 これは片道一時間かけてバーの面接に行った時の帰りの写真です。私はお酒を飲みませんが、背に腹はかえられぬということでとりあえず面接に行くことにしました。条件が最悪なので面接途中に帰ってきました。それに遠いので通うことは現実的ではありませんでした。

 「俺はオーストラリアまで何をしに来たんだろう」という絶望が毎秒繰り返されました。

ローカルカフェからのオファー

 そんな中、奇跡的にローカルカフェからオファー(合格通知)をもらいました。カフェのウェイターとしての勤務です。

 喜んで私は出勤しました。仕事自体はなんとか私でもできるほどのものでしたが、ここでも言語の問題は顕著に表れていました。

インターナショナルホテルからのオファー

 そして、またしても奇跡が起こります。
 カフェからオファーをもらった直後に、メルボルンにあるホテルからのオファーを受けたのです。カフェのオファーは蹴ってホテルのオファーを承諾して契約を結びました。

そのホテルはオープン前の状態であり、研修から参加することができました。
その際に、同僚の中に日本人がおり彼女から接客のイロハを教えてもらいました。
その時の実際のメモがこちらです。

研修の際のスライドの一部です。私の名前が役割記入されていることがわかります。

仕事終わりには同僚たちと飲みに行ったり、近くの公園に出掛けに行ったりしました。
これはその時に公園で撮ってもらった写真です。とても楽しそうです。

最終出勤日には同僚たちから寄せ書きをもらってしまいました。とても良い人たちで願わくば、もっと一緒に働きたいと思っていました。

もらった寄せ書きなど

教会について

なぜ教会へ行ったのか

 言語の勉強をするために、語学スクールではなく場数を踏むことで経験を得ようと考えていましたのでコミュニティを探す必要がありました。
 そこで見つけたのが教会コミュニティです。宗教は大嫌いでしたが金が無い以上、無料で学べる機会に飛びつきました。

一つ目の教会

 近くにある教会へ私は足を運ぶことにしました。そこではスモールグループで話し合いをするようでした。私は聖書を読んだことがないことに加えて英語が分からなかったので、その会話にはついていけませんでした。
 その教会へは一度行ったのみで2回目はいきませんでした。

その時の記録は残っていませんでした。具体的な日付及び場所は不明です。

二つ目の教会

最終的にこの教会で洗礼を受けることになりました。

詳細はこちらから。

初めの接点(English Corner)

私が英語を学ぶ機会を探していたという意図に合致するイベントをやっている教会があったのです。
English Cornerという英語初学者向けの無料英語レッスンのようなものでした。私は毎週のそのイベントの常連となり、友達もできました。

そこで出会った彼らと出掛けたりすることで関係を深めるに至りました。
日本人以外の人種と出掛けることが新鮮に感じられたことを覚えています。

特にイラン人の男性と仲が良かったです。Bro、ありがとうな。

(俺の中での)伝説の宣教師との出会い

 その教会で日本人の牧師に出会います。写真の右側の人物です。
 彼は私の聖書に対する不条理で敵意に満ちた質問にも真摯に回答してくれました。それらは筋が通っており彼と話すたびに私の中での聖書への理解・認識が一新されてきたことを記憶しています。

彼に出会わなければ改宗することはなかったと考えています。

教会の日本人向けイベントでのスピーチをしている様子

[下書き]クリスマスのイベント

クリスマスイベントの招待用パンフレット
クリスマスサービス後の風景

学生コミュニティ(STEP)との出会い

 ある日の教会サービスが終わった後の時間でのことです。

 “Are you a student?” と若い人から聞かれました。私は日本の通信課程を取り同時進行をしていたためYesと回答しました。そこから学生コミュニティへ招待されるに至りました。

 English Cornerコミュニティの人たちはある程度知り合いでしたが、このSTEPという学生コミュニティのメンバーに関しては全員知らない顔で驚いたことを覚えています。
 そんな中、一人の男性が声をかけてきました。そして私は”Living Water”という名の学生コミュニティSTEP内のスモールグループへ招待されました。

STEPのスモールグループとの出会い

 総勢100名ほどの大きな学生コミュニティでしたが、その中の20人くらいのスモールグループのメンバーとなることで、より交流を深めることとなりました。

 そのスモールグループのリーダーは大のアニメ好きで、彼と一緒に映画を観に行くことになりました。
 まさか、海外で見る初めての映画が日本語音声、英語字幕のアニメになるとは思ってもいませんでした。
 彼が観たいと言っていた映画のアニメについてはたまたま(ここ重要)知っていたので見に行くことにしました。

 想像してみるとシュールで面白いです。なんせ、マレーシア人日本人男2人オーストラリアで日本のアニメ「かぐや様は告らせたい」日本語音声英語字幕で見ているのですから。こんな経験をしたのはきっと地中上で私だけでしょう。

引用:https://www.animatetimes.com/news/img.php?id=1657592957&p=1&n=1
イースターキャンプで2泊した時の話

 それはそれはかけがえのないモーメントとなりました。学生コミュニティ全体で遠くにバスで行き、2泊3日のキャンプに行きました。
 到着してから画像左の絵を描き、教会サービスや交流を楽しみました。

 ある日のサービス(sermon)のこと。学生コミュニティ全体のリーダーの話がありました。その中で彼はJesusはあなたの兄であるという内容で説教をしました。これが私にとても響き、感動したことを覚えています。

ワーシップの後、祈り、リフレクションをする時間がありました。その中でJesusが兄として手を伸ばしてくる感覚を覚えました。

幻想的で感動的なサービス

最後に過ごした日のこと

 いつものライフグループの人たちからケーキを貰いました。「最後までなんて優しんだ・・・」と思いつつも的確な表現が見つからずにもどかしさを覚えました。

 空港へは彼らが送ってくれました。
 途中でマクドナルドに寄りましたが閉まっており、しんみりとした気持ちになったことを覚えています。

最後に寄ってもらったがしまっていたマクドナルド

 別れ際に「またメルボルン来る予定はある?」と聞かれたので、「もう来ないと思う。でもまた来たいとは思っている。」と返答しました。
 社交辞令であっても来る気がないのに「また来るよ」という無責任な約束はしたくないのです。

空港でのこと

 空港で私はこれまでのことに想いを巡らせていました。
 「全て終わったんだ」という言葉と共に、ゲームのエンディングを見ている気分になりました。
 あるいは大好きな小説を読み終えた気分とも言えますでしょうか。「楽しかったが、もう終わり」。

 そんなことを考えていると目から水が出てきました。しかし、この時ばかりは感情に任せることにしました。

学んだこと

苦労から学ぶことは非常に多いということ

 日本には「若い時の苦労は買ってでもしろ」という表現がありますが、これは正しいと実感しました。
 オーストラリアでは絶望することが多かったですが、そのお陰で日本に生まれて生活できることがどれほど恵まれているのかを実感することができまし
今では日本を愛しています。

一年という時間は人生を変えるには十分すぎるということ

 オーストラリアへ住んでいたのが2023年6月までの約1年間でしたが、2022年を思い出してみると私は自堕落は生活を送っていました。
 実家暮らしで在宅ワークで正社員として勤めながらも、それ以外の時間はオンラインゲームをして過ごすという生活でした。
 趣味はゲームであり、No Game, No Lifeとばかりでした。
 しかし、帰国してからの私は打って変わって別人に成り果てました。自分のやるべきことの方向性を見出すことができたのです。

もうゲームをしている時間はありません。

言葉通り「死ぬ気」でやったら圧倒的に成長するということ

私はオーストラリアにいた時に、「血反吐を吐いても、地を這ってでも進んでやる」と思いながら小さな一歩を刻んでいきました。
今振り返ってみると随分と高い崖を登ったなという感想です。
当時の私にはこれを超えられる気がしないと思います。

過去の決断に固執しないこと

 過去にはITエンジニアとしての道を志してみたことがありました。そしてオーストラリアに行った時にもその夢を捨てきれずにいました。
 なぜエンジニアに拘るのか?それは私に知見があるからです。しかしながら最も成長するのはできないことをやる時です。
 そのようにして、犠牲は伴いましたがそれを圧倒する結果と恵みを得ることになりました。

人と関わることは人生を変えることに繋がるということ

 人生の分岐には必ず人が関わるということがわかりました。かつての人生の変革のポイントを考えてみても全て他人が関与しています。
 つまり、誰とも関わらないのであれば人生は変わらないということです。

「やらない後悔より、やった後悔の方が良い」は本当

 多くの人は海外なんて危ないからやめておけと言います。しかし私は行って良かったと心から思っています。きっと海外に行っていなかったら、死ぬまで「いつか海外に住んでみたい」と思いながら死んでいくことでしょう。

言語と文化は密接であるということ

 日本には日本の文化があり、外国語を学ぶことはその文化に気づかせてくれます。単一の言語のみであれば文化を言語から読み取ることは困難ではないでしょうか。

体感時間がバグるのは充実度のサイン

 恐ろしい速度で成長することができました。そのため、本当に体感時間が4倍くらいに感じました。
 つまり、3ヶ月という物理的な時間を1年くらいに感じたという意味です。

日本は恵まれていること

 日本は極めて恵まれています。
 以前の私は日本の閉鎖的な価値観に辟易としており、どこか自由を求めていました。しかし、それは如何に自分が未熟で客観的な視点を持ち合わせていなかったかということを物語ります。

失う痛みが大きければ得るものも大きい

 失うことを恐れずに挑戦して結果として失うことになっても、大きなものを得られるということです。私は家も仕事も恋人も無くなったものの、新しいキャリアと圧倒的な自己成長を得ることができました。

できなくて当たり前であると知ること

 誰でも失敗はしたくありません。そのため、「できること」に囚われがちです。しかしながら真価を発揮するのはできないことをやる時です。できなくて当たり前なのです。
 英語が話せなくても、相手を不快にする覚悟で無理やりにでも話します。そうすることで経験と能力を得られました。

おまけ編:生活について

食べ物について

自炊の記録集

オーストラリアでは何をするのも非常に高いです。そのため自炊をすることが必要でした。クックパッド先生には大変お世話になりました。
以下、実際に私が作って生きながらえた食べ物の記録です。
また、炊飯器がメジャーではなく手に入らなかったので鍋?に入れて米を炊いていました。

(ちなみに料理嫌いのため、外国のレシピについては何一つとして取得できませんでした)

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