俺が反吐が出るほど嫌いだった神とやらを信じるまで

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CrossCulture Churchで最後に取ったCommunionの写真。

この記事はもう少し加筆する予定です。

はじめに

 私はかつてキリスト教を含む宗教という概念そのものが大嫌いだったものの、今では真逆の立場にいる者と成り果てました。しかしながら、クリスチャンになってからも”嫌いであった頃”の思いを忘れずにいようと思い続けています。

 わかる人にはわかると思いますが、それはまるで子供向けアニメである「アンパンマン」に登場する「ロールパンナ」のように、負の側面が残っている状態な気がします。

引用 https://www.pixiv.net/artworks/46056266

そのためか、クリスチャンになってしばらく経った2025年3月現在においても私は「キリスト教」という言葉に良い印象を抱きません。そのため自分のことを「クリスチャン」、或いは「Christianity(クリスティアニティ)」と言います。幼少期からの強烈な否定的イメージがそうさせています。

嫌いだった頃のこと

 22歳ごろまで、私は「宗教」という言葉及びその概念が大嫌いでした。それらは無価値であり、そんなことよりも大切なことがあるだろうと信じて疑いませんでした。

 クリスチャンについては、「なんか分厚い本を大切に持っているな〜」くらいの認識でした。「神なんて奴に頼ってどうする?目の前の問題は解決しないのにどうすんの?」って聞きたかったです(実際聞きました)。

 自分の問題は自分で解決しなければならず神に頼っているような人たちを「行動力のない言い訳」などと考えていました。

キリスト教に触れる機会が訪れる

 私がオーストラリアにいった際に、説明できない理由により「教会」ってところに行ってみようと思いました。おそらくですが、孤独であったので何か現状を切り開く手掛かりになるのかと一縷の望みを賭けての考えだったのかもしれません。
 その結果として、洗礼を受けることになった教会に通うことになるわけです。

牧師と闘う

 そこには日本人の男性牧師がいました。私は関わりたくありませんでしたが相手が強く誘ってくるので時間を作ることにしました。
 「せっかくなので質問をしてやろう」と思い、いくつかの質問をしました。この議論は数時間に渡り白熱したものになりましたが内容については失念してしまいました。

  • なぜ聖書が正しいと信じられる?
  • 神さまとやらは何者?
  • 神を信じない人をどう思う?
  • 少なくとも俺はキリスト教が嫌いだけど、それについてはどう思う?

こんな質問をしたような気がします。納得ができるまで同じことを執拗に聞き続けました。

一回3時間くらいの質問攻撃を5日(5回)くらいやりました。

「計画」を知る

 教会の学生コミュニティの友達からGod’s plan(神の計画)ということを聞きます。
 要するに神にはある計画があるが、誰一人としてその計画の内容は知らないというのです。

 そう、俺がオーストラリアに来たことも教会に来たことも全てはGod’s planということです。

 俺「これも、けい、かく?」

「精霊」を知る

 友達たちと話をしてHoly spirit(精霊)について聞きます。
 その概念は、the Son(Jesus)の犠牲的な懇願により、Holy spiritというメッセンジャーがthe fatherへの疎通を許されたというものでした。だから、Jesus無しに関係が壊れたthe fatherへは繋がれないということでした。

 つまり、”Holy spirit is a messenger between us and the father.”ということです。

 なるほど。だから祈りは”Dear father,”で始まり、”Pray in Jesus name.”で終わるのか。

 この時、概念を論理的に理解することができました。

「計画」が用意されていることを知る

Psalm 32:8-11を受け取ったのは帰国後であることが分かったので時系列的に誤りです。当時のこのタイミングで実際に友達からもらったのが何だったのかは記憶から喪失しています。しかしながら心境の変化については近似しているため誤りのままで残します。

 ある日に私が将来について悩んでいると言うと、友達からこんな聖句をもらいました。

Be not like a horse or a mule, without understanding, which must be curbed with bit and bridle, or it will not stay near you. I will instruct you and teach you in the way you should go; I will counsel you with my eye upon you. Many are the sorrows of the wicked, but steadfast love surrounds the one who trusts in the Lord . Be glad in the Lord , and rejoice, O righteous, and shout for joy, all you upright in heart!

Psalm 32:8-11

 特に刺さったのは”I will instruct you and teach you in the way you should go”という部分で、まるで悩んでいることの先を見通しているのかとばかりの断言に驚きました。

 ”Be glad in the Lord”

「喜んでいいんだ。。。計画があることに。。。」

 自分のことは自分でやらなきゃいけない、誰かの計画に乗ることは良くないとネガティブに考えていた考えは気づけは無くなっていました。

祈ってみるように勧められる

 闘っていた日本人男性牧師から祈ってみることを勧められました。
 まあ、ものは試しとばかり寝る前に祈ってみることにしました。

 ”Dear father, thank you for your grace. エトセトラ、エトセトラ. Pray in Jesus name, amen.”

 そしてそんなことを続けて1ヶ月くらいした日のこと。それらの祈りが聞かれた気がしました。
 今までは壁に向かって話しかけていたものが、その日は意思のある何かに話しかけているような感覚を覚えてしまったのです。

負け宣言🏳️

 信じるとは何かというテーマで友達とディスカッションをしていた時のことです。

 友達「信じるとは降参することだよ」

 それを聞いた当時はよく理解できませんでしたが、しばらく日を置いてから悟りました。

 俺「自力で解決できることには限界がある。。。聖書には勝てない。。。自分の人生すら制御できない。。。じゃあ、その計画とやらを教えてくれよ。。。」

 こうして私は勝てないことを理解したのです。
 「神に委ねる」、これは神さまを信頼することですが自分の人生をコントロールすることを放棄したことに近いと感じました。

Communionに参加する

 そして次の教会サービスで私はCommunion(聖餐式)に参加しました。
 私の人生の主導権を開け渡す。四肢感情の権限を譲渡することを意味しました。

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